研究内容    研究室での教育・研究指導方針

物質科学における理論の深化と新概念の創成

 化学は物質に基礎を置く自然科学の一つであり、化学工学はその字の通り「化学の工学」です。化学が取り扱う対象である物質は分子からできており、分子は複数の原子が結合により繋がったものです。すなわち分子の性質や反応の理解への第一歩は「結合」の性質を明らかにすることです。化学は実験から得られた経験を積み重ね「結合」を理解する方法を編み出してきましたが、実際の分子の結合の真の理解は量子論に基づいてしか行えません。

 第一に、本研究室ではこのような化学結合を量子論に基づいて理解するための指標として「開殻性」(結合の弱さ/電子と電子の相関の程度を表す)という概念を用い、それに数理表現を与え、様々な分子の結合の性質を明らかにしています。さらにこの「開殻性」が分子の構造、反応、物性とどう関係しているのかを理論的に明らかにし、「開殻性」という統一的な見地から、新しい構造を持つ物質、新しい反応系、新しい機能物質の理論設計を行っています。特に未解明な「中間的な開殻性」を持つ分子系に着目し、従来にない特異な構造、反応性、物性を理論的に明らかにしています。このような系はわずかな外乱(電磁場や他の分子との相互作用)により鋭敏にその性質を変化させる特徴を持っており、工学的な面からも従来の系を凌駕する新機能材料や新反応システムの核となる物質として注目されています。実際、「開殻性」を有する分子系の外場応答特性や単分子の電子伝導性が、物質中の開殻性、電子スピン状態、環境の効果等により劇的に変化することが理論に基づき発見され、それを高機能スイッチング素子へ活用するという新たな工学的応用の可能性も徐々に明らかになっています。本研究室のテーマは一見多彩ですが、この「開殻性」という概念に貫かれています。

 第二に、定常的な現象だけでなく、時間とともに変化する非平衡・非定常現象を扱う研究も行っています。このような時間変化する現象(ダイナミクス)を量子論的に取り扱う方法論や解析法の開発を行い、先の開殻性の概念を時間軸に拡張することも目指しています。

 第三に、実際の現象は単分子で起こるものだけでなく、分子集団として発現するものが多く、そこでは分子間の相互作用や分子を取り囲む外部環境(溶媒、結晶場、界面など)の考慮が必要となります。これら集団系での物質やエネルギーの量子輸送を解明する新規な理論的方法を提案し、実在系の現象の機構解明や設計を行っています。本研究室では、以上3つの項目について理論的アプローチや新概念の構築と適用により、実験ではなく「理論に基づく新物質・新反応・新機能の発見」とそれに基づく「理論設計」の実現を最終目標としています。これにより、実験家と協力して「理論ー実験の相互フィードバックループ」を活用した研究を行うことが可能になると考えられます。

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以下に現在の具体的テーマを簡単に説明します。



開殻分子系の非線形光学の理論と物質設計

 未開拓の中間および強電子相関系の非線形光学(NLO)効果について、世界に先駆けて「開殻分子に基づく新規非線形光学物質の理論」を量子化学に基づいて提案しました(図1)。この新規NLO系は、中間開殻性を持ち、これまでの閉殻分子からなるNLO系を遥かに凌駕する特性を示すことが理論的に示されました。また、単に理論予測に留まらず、実験家とも協力し、「理論-合成-測定の三位一体アプローチ」により実在の開殻NLO物質の創成を目指して研究を行っています。近年、この設計指針に基づいた様々な開殻分子系が実際に合成され、そのNLO特性が測定から、我々の設計指針の妥当性が実証されました。さらに、これらの開殻系は、外部静電場印加等の物理的摂動やドナー・アクセプター置換基の導入等の化学的摂動により、そのNLO特性を顕著に変化させることが予測され、超高速NLOスイッチの基本物質としても期待されています(図2)。最近は、複数のラジカル部位をもつマルチラジカル系における新規な構造-特性相関の解明、その計算・解析法の開発を中心に研究を推進しています。


図1 第二超分極率γのジラジカル因子依存性


図2 外部電場存在下における開殻分子系の巨大非線形光学応答



超分子系での電子ダイナミクスに基づくエネルギー移動および動的光学特性の研究

樹木状の高分子(デンドリマー)や分子集合体では、高効率かつ指向性の高いエネルギーの輸送を発現し、そのエネルギー移動過程は光吸収によって生成される 電子とホールの対(エキシトン)の移動によって引き起こされていることが知られています(図3)。我々は、そのような時空間発展現象を扱うために、エキシトン- フォノンカップリングを含む量子マスター方程式を基礎とした量子ダイナミクスの方法論を新たに開発し、エキシトン移動のメカニズム、構造-特性相関を抽出 することで、新規なナノサイズ光収集系の量子設計の指針を構築することを目指しています。一方、外部レーザ場により物質に誘起される非常に短い時間でのエキシトンダイナミクスは分子内・分子間における電子とホールの相対位相を維持した時空間ダイナミクスであり(図4)、高次非線形光学応答や未来の量子情報デバイスの基礎研究として大変重要です。


図3 デンドリマーの励起子移動ダイナミクス


図4 アントラセン二量体における励起子回帰運動



開殻因子に基づく一重項分裂(シングレットフィッション)の分子設計

一重項分裂(シングレットフィッション)は、光励起により生成された一つの一重項励起子が二つの三重項励起子へと分裂する過程です。原理的には一つの光子で二つの励起子を生成させることができるため、一重項分裂の発現は有機太陽電池の光電変換効率を向上させる新たな指針の一つとして注目を集めています。当研究室では、この一重項分裂のための条件を分子の開殻性の観点から検討し、開殻因子に基づく新規分子の設計指針の構築を目指しています。

図5 開殻因子に基づく一重項分裂の分子設計



開殻分子系の電子輸送現象の解明と物質設計

単分子電子伝導は、分子デバイスの構築には必須な分子物性の一つです。これはオームの法則に従うバルクの伝導性とは異なり、ランダウアーモデルにおける、分子中の電子の透過率によって説明されます。しかしながら、透過率と個々の分子の量子的性質の具体的な関係性は明らかになっていません。また、開殻分子ではスピンの自由度も加わるために、そのメカニズムは非常に複雑となりますが、一方で閉殻系では得られない複合機能が期待されます。本研究では、開殻分子の電子伝導性を見積もる手法論の開発と実在分子系における原理解明、さらには、その結果に基づいた官能基や電極との接合方法の理論設計、新規プローブ法の提案、新たな機能創成など、次世代の量子機能性物質の創製に繋がる研究を遂行しています。一例として、一次元ニッケル多核錯体でのシミュレーション結果は実験結果と良く一致し、メカニズムを分子軌道レベルで明らかにすることに成功しました(図6)。

図6 一次元ニッケル錯体における単分子電気伝導のシミュレーション結果



「量子機能性分子材料の理論設計に関して」(2012年11月)

 量子機能性材料は、電気特性、光学特性、磁性等の機能の発現を起こす物質を含む材料であり、エレクトロニクス、フォトニ クス、スピントロニクス等の技術分野におけるデバイスを構築する必須要素です。従来の機能性材料の主役は、Si等の半導体に代表される無機物質ですが、近年、その機能性の向上に不可欠な微細加工における様々な限界の問題が明らかになってきました。

 一方、有機化合物を基本とする機能性材料は、その構成要素である分子の構造および電子的な柔軟さと多彩な分子集合様式に起因する遥かに高い機能性とその化学的・物理的制御可能性を備えており、各技術分野で従来の無機材料を凌駕する次世代分子デバイスの基本要素として注目が集まっています。これら「機能性分子材料」の機能発現の起源は、個々の分子の属性(電子・スピン・分子振動等)の量子状態とその集合相(結晶やクラスター等)における分子間相互作用を通したこれら属性の相関量子状態の変化であり、機能の機構解明やその合目的設計のためには、個々の分子からその集合相に到る構造・物性・反応の統一的な予測を可能にする高精度かつ大規模な最先端理論計算化学の方法の開発と実行が重要です。

 特に、個々の分子やその集合相の相関量子状態において、「電子相関が新機能性発現の鍵となる」という新しい概念が化学と物理の学際領域において見い出されつつあります。例えば、基底状態における擬縮重軌道(開殻性を有する軌道)に起因する静的電子相関が、有限/半無限のグラフェンのエッジ部分における電子スピンの局在化とそれに由来するハーフメタリシティ、巨大非線形光学応答、磁性発現などの顕著な特性の原因となることが示唆されています。このような特異な電子状態をもつ中間及び強相関電子系に対しては、通常の単参照理論に基づく摂動法等の電子相関手法では定性的な記述さえ不可能であり、静的および動的電子相関を有効的に取り込む多参照理論に基づく方法等の次世代電子相関手法の適用が不可欠です。また、本質的に、このような系の励起状態は、基底状態や他の励起状態と強く相関し、高効率に様々な光物理化学過程(光吸収・発光・光反応など)を発現させる未発見の新機構が存在すると期待されるため、その解明は複数の機能性を相互に制御可能な将来の多重機能性材料の実現に繋がることが予想されます。

 一方、集合相における機能性発現過程の解明はさらに興味深い研究対象を提供します。例えば、半導体や様々な幾何構造・サイズを持つ分子性ナノ構造体の機能発現にとって重要な電荷移動は分子間相互作用を介して起こるため集合相中の分子配向が機能性に大きな影響を与えます。そのため、分子間相互作用や分子配向、集合相構造の予測精度の向上が今後の展開の重要な課題となると考えられます。この場合、従来の周期構造をもつ無限系の取り扱いだけでなく、アモルファス構造や有機薄膜太陽電池のバルクへテロジャンクション構造のような周期構造の無い系も扱うことのできる方法 − 個々の分子の相関量子状態を精度よく記述でき、かつ大規模な有限サイズも含む非周期集合相へも適用可能な電子状態計算法 − の開発と実行が必要です。

 さらに、平衡状態における性質だけで機能発現機構の全てを理解することはできず、大規模な集合相における相関量子状態の動力学の構造と機能性の相関を支配する因子の抽出を通した新概念や化学原理の解明を目指す基礎研究が不可欠です。例えば、有機薄膜太陽電池の電荷生成過程の場合、ドナー相とアクセプター相の界面において、励起状態を介して電荷分離が起こります。この電荷分離に最適な分子や界面(2次元集合相)の設計においては、分子集合相の相関量子状態の正しい記述に基づき、外部環境との相互作用に起因する構造や電子状態等の緩和・散逸量子過程の記述も可能な大規模励起ダイナミクスのシミュレーションによる解析が重要な役割を果たすと考えられます。

 以上のように、これら物質化学における分子科学に立脚した基礎理論や計算・解析法の発展には「大規模超高速計算機の利用」が重要ですが、一方で、複雑な系や現象の本質を記述するシンプルなモデルの構築とそれに基づく概念の提案という「紙と鉛筆」でできる研究も同じく重要であります。マックスウェルは、優れた研究者の備えるべき資質として「心(直観)、頭(論理)、指(技術)」をバランスよく駆使する能力を挙げました。意外に思われるかもしれませんが、急速に進歩する「超高速計算機」は「指」に相当するもので、これらの能力を生かすも殺すも「心」、「頭」の鍛錬と成長が今後ますます重要になってくるのです。さらに、得られた概念や化学原理の妥当性の検証や再考には、設計された系の「ものづくり」とその機能性の精密測定を行う「実験化学」の進展が必須であり、「理論−合成−測定」の三位一体アプローチに基づく共同研究を通して互いに緊密に成果をフィードバックすることが今後の量子機能性分子材料の理論設計の発展において必須になってくるといえます。

 これらの成果は今後の理論計算化学における一つの新展開分野の開拓という学術面における貢献のみならず、将来の新機能性分子材料の理論計算化学に基づく理論設計という応用面においても多大な波及効果が期待でき、「科学と工学の融合」を目指す本研究科の「基礎工学」の理念に合致するといえます。


研究室での教育・研究指導について

研究室では以下のような学生を募集しています。

(1)自然科学と技術の分野での様々な系の示す現象やその仕組みに関して「なぜか?」という根本原理の徹底的な探求に興味のある人
(2)(1)の達成のために必要となる、様々な学問や知識の貪欲な習得欲と物事をゼロから作り出す(考えだす)という独創性、新しい領域に踏み出しどんな困難にも立ち向かう勇気、集中力、粘り強さ、および長期的な視点でこれらの活動を継続できる興味を持ち続けることができる人
(3)(1)で得られた根本原理に基づいて理学、工学においてブレークスルーを目指したい人
(4)最終的に、これらの研究を通して、独自のフィロソフィーを構築したい人

なお、これらの特質は、研究室での活動を通して錬成されるもので、所属時には上記のような心意気とやる気があれば十分です。
 具体的には、研究室での研究・教育指導として、以下のことを行っています。研究では、目的遂行のため実験や計算をしたり理論や新しいアイディアを考えたりしますが、最後に成果を公表することで意味を持ちます。すなわち、研究とは、企画立案から公表までの一連の流れとして捉えられます。研究室では、教員の指導のもと、教員や大学院生との議論を重ねた上で、自分で立案、実験した研究内容を遂行し、成果が得られた場合、国内外の学会での発表や論文誌への投稿を学生の段階から積極的に行うことを推奨しています。これらの実行のために、4年生に対しては、毎週複数回、輪読会形式で基礎的なテキストを勉強する時間を設け、問題や課題をこなすことで研究を進める上での基礎学力を身につけさせます。また、毎週行われる雑誌会や研究報告会では、教員を含めて全員が1人2時間ほどの時間が与えられ、平等で自由な討論を通して客観的評価を受ける(与える)ことで自身や他人の研究内容を見直す訓練を行います。また、コンピュータやプログラミングは、あくまで研究目的を達成するための実験器具とその利用法であり、あらかじめ特別な技術や知識が必須という訳ではありません。必要に応じて学習することになります。一方、グループ紹介等で挙げられた理論化学の基礎学問については、継続的に学習し修得していく必要があります。
 研究室は文字通り学問・研究を行うための場(道場)です。その目的のためにのみ、研究室の設備(机、コンピュータなど)が利用できます。特に専用のディスカッションルームが1室設けられ、教員と学生の間や学生間での自発的かつ活発な議論(あるいは瞑想)を推奨するためいつでも気軽に利用できます。
 最後に、研究のスタイルについて一言述べておきます。理論計算化学の研究には、3つのスタイル−(1)純理論の構築を主目的として高度な数学と数式の取扱いを行う、(2)計算機ソフトウェアの構築を行う、(3)実験研究者と共同して計算化学の立場から化学における新概念の構築を目指す−があります。本研究室ではこの3つのスタイルの教育と実践が可能であり,本人の素質や希望に基づきバランスのとれた研究者、技術者の育成が可能です。

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