日蘭友好400周年とハラタマ

 

芝 哲夫

 

  西暦一六〇〇年四月一九日に一艘のオランダ帆船が九州豊後の臼杵の海岸に漂着した。一六世紀の大航海時代はポルトガルによって開かれ、後にはスペインも追随して、イベリア半島からアフリカ南端を廻ってインドのゴアに達するインド航路が開かれた。このルート開拓に乗り遅れたオランダは欧州から西廻りでインドに至る新航路発見を目指した。一五九八年にオランダのロッテルダムを出発した五隻の船の中ただ一隻のデ・リーフデ(慈愛)号だけが幾多の困難を乗り越えて、オランダを出発してから二年後に着いたのがインドならざる日本の地であった。これから日本とオランダの交流が始まり、わが国の鎖国時代にもオランダ人は長崎出島に駐在し続けて、交易のみならず、近代化に向かう日本に不可欠な西欧文化をこの国に伝え続けてくれた。平成一二年(二〇〇〇)がその四〇〇年目に当るので、日蘭両国において国家事業として種々のイベントの展開が計画されている。

 幕末から明治初期にかけて、特に大阪は化学、医学、土木の面でオランダ人に多大の恩恵を受けたことを、この際思い起こしたい。医学においては、明治二年(一八六九)に設立された大阪医学校に相次いで赴任したのがボードウィン、マンスフェルト、エルメレンスの三人のオランダ人医学者であった。大阪の近代医学の基礎は彼等により作り上げられ、その大阪医学校の流れが連綿として現在の大阪大学医学部に続いている。また明治六年(一八七三)に来日した土木技術者デ・レーケは江戸時代以来度々の洪水災害に見舞われていた大阪の町一帯を新淀川開削の治水事業によって救ってくれた。天保山を近代的な港湾として整備してくれたのもデ・レーケであった。

 化学の面では、はじめての外国人専門化学者として来日し、大阪の大手前にわが国最初の本格的で組織的な化学専門の学校、舎密局(せいみきょうく)を創設したハラタマがいた。クーンラート・ウオルテル・ハラタマKoenraad Wolter Gratama は慶応二年(一八六六)四月に長崎に到着して、精得館内の分析究理所で化学専門教育を始めようとした。しかし翌年、幕府はこれを江戸に移して、開成所内に理化学校の設立を企図して、慶応三年(一八六七)二月にハラタマを長崎から江戸に移した。しかし江戸で新しい理化学校が出来上がる前に、維新戦争となり、幕府は崩壊した。

ハラタマ

明治新政府は当時、京都からの遷都を予定していた大阪にわが国学術の中心機関を設置する計画を立て、まずハラタマを招聘して、明治二年(一八六九)五月には大手前に舎密局が創立された。舎密(せいみ)とはChemie の音訳で化学の意であるので、舎密局とは化学校というべきものである。東京において開成所の流れから東京大学が出発するのは明治一〇年(一八七七)のことであるから、大阪の舎密局が外国人教師による化学専門教育を始めたのは、長崎の分析究理所の延長として、正に日本の近代科学教育機関のさきがけであったといえる。ハラタマはその開校講演で文明開化に向うこの国にとって理化二学が不可欠の学問であることを力説した。その講義録は『理化新説』四巻として出版されている。ハラタマはまたオランダから送られてきた当時最新の器具、薬品を用いて、理化学の実験教育にも力を注いだ。開校当時は少なかった学生も、近くに開校された医学校からの聴講生も増えて、ハラタマは益々舎密局での教育に熱を注いだ。

 はじめ大阪医学校の薬局主管であった明石博高(ひろあきら)はハラタマに学んで、舎密局の助手となり、後に京都舎密局を開設して京都の殖産に貢献した。また医学校から舎密局への聴講生の中に、後年米国に渡って、副腎ホルモンアドレナリンを結晶化させた高峰譲吉がいた。舎密局におけるハラタマの助手の村橋治郎につぃて化学の手ほどきを受けた池田菊苗は後に昆布の旨味の成分としてグルタミン酸ナトリウムを取り出して味の素を発見したことで知られている。現大阪大学村橋俊一教授は村橋治郎の曽孫である。また長崎時代のハラタマに就くべく、徳島から留学した学生に中に日本の薬学界の泰斗長井長義がいた。こうして見ると、直接、間接にハラタマの影響はその後の日本の化学の発展の中に大きい足跡を残したといえる。

 舎密局開校一年半後の明治三年一二月にハラタマの雇用契約が終了して、翌年ハラタマは離日してオランダへ帰国した。その後任にはヴェーラーの弟子のドイツ人リッテルが赴任した。しかし、維新後ようやく政局が安定した中で、明治政府は教育の中央集権政策を進め、明治五年(一八七二)には舎密局の後身の大阪開成所は閉鎖され、第一番中学と改称されて、普通高等教育機関に格下げとなった。舎密局以来の人も物も組織もここに至って解散させられ、その多くは東京に移って東京大学の開設に資せられた。第一番中学校はその後、年ごとの校名の変更を重ねて、明治二二年(一八八九)には京都に移り、旧制第三高等学校となる。しかし大阪医学校の方は明治五年(一八七二)の学制改革で一旦閉校となった後、大阪府立の医学校として再出発し、府立医科大学を経て、前述したように、昭和六年(一八三一)の大阪帝国大学創立につながるのである。

舎密局

 オランダに帰ったハラタマはフローニンヘン衛戍病院衛生官、デン・ハーグ陸軍病院長を歴任して一八八八年一月一九日に享年五六歳で亡くなった。昭和六三年(一九八八)一月一六日には大阪科学技術センターにおいて近畿化学協会主催で、ハラタマ没後百年記念講演会が開かれた。

 時は巡って、平成一二年(二〇〇〇)四月には大阪での日蘭友好四〇〇年記念行事の中心事業として、二つの大阪大学行事が予定されている。一つは江戸時代末期の蘭学の中心であった適塾を顕彰する講演会と展示会である。もう一つは二一世紀において人類が持続可能な社会を続けるための化学の役割と課題を論議するハラタマワークショップの開催である。ハラタマワークショップの名称と発案はオランダ科学芸術アカデミーの提案によるものであり、大阪大学と大阪工業技術研究所の関係者により現在鋭意その準備が進められている。ワークショップは平成一二年四月二一日から二五日まで大阪大学吹田キャンパス内銀杏会館に、日蘭両国の化学者が相集い、(A)エネルギー・環境と化学技術、(B)精密化学と触媒、(C)グリーンケミストリー の主題について講演、討論が行われる。

 ハラタマワークショップの事業の遂行に当っては、公的資金の援助は期待できないので、近畿化学協会所属の企業法人各位からの援助に頼らねばならない状況です。大阪の化学の出発に関係するこの意義ある事業を是非成功させるために、各位におかれまして何卒この趣旨をご理解下され、何分のご高配、ご援助を頂きますよう、切に懇願申し上げる次第です。各企業法人にはこの募金趣意書が発送される予定でありますが、その節は何卒よろしくお願い申し上げます。

 なおこの機会に、近畿化学の恩人ハラタマ博士を顕彰して、その恩恵に感謝するために、ハラタマの胸像を建立し、二〇〇〇年四月のハラタマワークショップ開会式において除幕式を行うことが計画されております。その建立費用は近畿化学協会会員を中心とする個人募金によって賄いたいと思いますので、これまた会員各位のご支援を心からお願い致します。胸像建立事業のさらに詳しいご案内は次頁の記事をご覧頂きたいが、会員各位には別に募金依頼書を郵送させて頂きますので、是非ご賛同、ご支援を賜りますようお願い申し上げます。

 以上、日蘭友好四〇〇年とハラタマ関連事業のご説明とお願いを致しました。

 

出典:近畿化学工業界 1999年 10月号

 

平成十一年九月

 ハラタマワークショップ組織委員長

大阪大学名誉教授

   芝 哲夫

 

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