「楷の木」の歴史

1.孔子にゆかりのある中国原産の珍木

今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。今も残る70万坪(200ha)の孔林です。孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。

孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。

 

2.林学博士の尽力で日本へ

江戸時代まで「楷の木」は日本には存在していませんでした。日本に初めて移入されたのは、大正4(1915)でした。当時、農商務省林業試験場の初代場長であった白沢保美博士が中国を訪れ、孔子の墓所から「楷の木」の種を採取し、播種、育苗されました。その後、日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂3()、足利学校1本、閑谷学校2()、多久聖廟1本()など)に寄贈されたのが最初です。楷の木は、和名で牧野富太郎博士が「孔子木」と命名しましたが、現在では「楷の木」または「楷樹」と呼ばれております。

風土に合っているためか、閑谷学校(岡山県)の楷の木が最も大樹に育っています。閑谷学校の中心である聖廟の両脇に二本の木が植えてあり、どちらも幹の太さが2m、高さ約13mに達しています。孔子にちなんで、閑谷学校では、「楷の木」を『学問の木』と呼ぶようになりました。つまり、日本で最初に『学問の木』と呼んだのは閑谷学校が最初です。

 

白沢保美博士 日本林学会に不朽の功績を残した研究者で、彼の名を冠した白沢賞が1975年まで存在しました。その後、学会規則の変更により林学賞に統一されました)

閑谷学校 岡山藩主の池田光政が開港した、日本最初の民間学校。儒学の精神に則った教育精神です。

湯浅聖堂 江戸時代、儒教は武家の思想・教養として発展した。湯浅聖堂はこの中心地である。

 

3.楷の木の特徴

「楷」は中国では模範の木とされており、日本においても書体の「楷書」の語源されていて、訓は「ノリ」、意味は「つよくまっすぐ」「てほん」です。また、儒学の精神を体現するシンボリックな存在としても有名な珍木です。

 楷の木は、漆樹科の落葉喬木で、中国では、楷木、奥連木、黄連木と呼ばれ、台湾では欄心木(らんしんぼく)と呼んでいます。和名は「ナンバンナゼノキ」または「トネリバハゼノキ」といい、イチョウと同様、雌株、雄株の区別があります。実をつけるまでに20年もかかり、それまでは雌雄の区別がまったくつきません。雌株と雄株をあまり離して植えてしまうと交配できず、実がつきません。また、発芽率は低い(50%程度)が、成長力は大きく、樹齢は700年にも達し、樹高は30mになります。現在、日本では非常に少ない木として珍重されています。

 

4.楷の木の一生

 発芽率の低い楷の木ですが、その成長と、四季折々に見せる美しい佇まい、特に秋の紅葉はすばらしいことが有名です。

 

5.そして大阪大学基礎工学部へ

かねてより計画しておりました 基礎工学部同窓会記念の植栽の贈呈を、学部創設45周年・同窓会創設20周年を前に、創設理念の実現と学問の益々の興隆を期して実施する運びとなりました。基礎工学部を見晴らす、正田建次郎先生ゆかりの国際棟前庭園に、古くより「学問の木」として知られ、秋には美しく紅葉する「楷の木」一対を植樹し、また創設の理念を刻んだ記念碑を贈呈します。記念式典は2005526日にシグマホールにて執り行われます。是非お越しください。